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健康経営における不平等は許容されるか?

医療のあれこれ

健康経営は誰のものか

健康経営は誰のものか。従来型の福利厚生制度の延長としての健康経営は間違いなく従業員が主役だった。
従業員が好きなタイミングで、自分の健康を維持することを目的に参加をしていた。
ところが健康経営の文脈では、企業戦略としての色合いが全面に押し出されている。つまり主役は企業にシフトしたのだ。
米国のような医療費が高額に登り、医療保険の支払いがダイレクトに企業に影響を及ぼすような文脈では成果が見えやすくもてはやされるのも当然だった。
翻って我が国日本においては、国民皆保険制度の元で医療価格は統制されており、医療費の支払いがダイレクトに企業経営に打撃を与えることは相対的に少ないと思われる。その中ではアブセンティズム(欠勤による労働損失)やプレゼンティズム(生産性低下による労働損失)の文脈で語られることが多い。しかし、健康経営の生み出すものはそれに留まらない。離職防止はダイレクトに企業の経済活動に影響を及ぼす重要な要素だ。
優秀な人材が離職すると、その後任人材の採用・教育コストが生じ、チームとしても一時的な生産性の低下は免れない。
https://note.com/yasumasa1995/n/n65c2c3040b85

の中で語られる「キャリア支援」としての健康経営も離職防止・生産性向上・欠勤防止のいずれかの領域に当てはまる。
問題は、これらの施策を特定のグループだけに提供することが得策なのかどうかというところだ。

企業における健康施策が”正しく”あるための要素

健康施策を行うときには倫理的な課題に直面する。
倫理的であることは企業としての高潔さを示すだけではない。企業が社会に対して・ステークホルダーに対して説明責任を果たす上でも重要な要素だ。つまり納得感をもってもらうためには、少なくともある一面においては、倫理的であることが重要である。
実は私自身はJohns Hopkinsに留学中、修士論文として企業の健康施策における倫理的な課題についてまとめた。
その中では①利益をもたらし、無危害であること②自律性を尊重すること③正義に叶うものであること、これらの倫理三原則がどのように関わっているのかについて議論した。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eohp/2/1/2_2020-0016-RA/_article/-char/ja/

今回の議論はこの中でも正義に関わるものだ。
この文脈において求められる正義にはいくつかの要素があるが、ここでは公平性(Equality)について触れてみたい。
平等(Equity)と公平(Equality)は一見すると同じものに見えるが、その中身は大きく異なる。

平等とは個人の特性や性質に関わらず、同一のものを提供することだ。
健康施策の文脈で言えば、

  • 疾患リスクの有無に関わらず食事のカウンセリングを受けることが出来る
  • 男女問わずに出産休暇を取得することが出来る
  • 年齢に関わらず腰痛予防プログラムに参加出来る


といった具合だ。全ての人に同じ機会を提供するのが平等である。

他方で公平とは、個人の特性に応じて同じゴールが達成出来るように必要な支援を与えることを言う。

  • 疾患リスクの高い社員に食事のカウンセリングを提供する
  • 女性社員に女性特有の健康イベントに対して特別休暇を与える
  • 高齢社員に腰痛予防プログラムを提供する

これらは一見するとハイリスクアプローチにも見えるが、本質的には「健康に就業を継続出来る機会」を個人の特性に応じて提供することによって、社内での活躍を支援することを含んでいる。ハイリスクだから対応するというトラブルシューティング型に特化した発想とは全く異なり、これは活躍の機会の保障であり、前述のnoteでの「キャリア支援」の意味だと私は解釈している。

健康施策を特定のグループに提供することは得策か

これまでの議論を元に健康施策を特定のグループに提供することが得策かを考えてみたい。
特定のグループだけを対象とすることは、平等ではない。その意味で不満を持つ人はいるかもしれない。
しかし、企業の資源は有限であり、全ての施策を全ての社員に提供することは現実的ではないこともある。
そして、必ずしも、それらの施策を必要としている人ばかりではない。必要な人に、必要な物を、限られた資源で届けるという意味で、平等にこだわる必要はないと考える。

一方で公平さについてはどうだろうか。
先のnoteで紹介されていた卵子凍結の支援は平等ではないが、公平な制度ではあると考える。
女性特有のライフイベントである出産(社会的には男女のものだが、生物学的には女性特有のものであると、この記事では取り扱う)でキャリアが中断され、活躍の機会が失われる/低減する可能性がある。これを穴埋めするために会社として制度を整備することは、まさに「個人の特性に応じて同じゴールが達成出来るように必要な支援」に該当すると考えられる。
男性は卵子凍結のサービスを受けられないので、平等ではないが、女性特有のライフイベントを穴埋めすることで、同じように活躍する機会を得られる公平な施策となりうる。
この意味では「不平等な(でも公平な)健康経営」として私は賛同する。

しかし、どんな場合においても不平等が許容されるわけではないことにも触れておきたい。
例えば、健常者だけにジムのアクセス権を付与したとする。健常者はもちろん身体的なハンディを背負っておらず、身体的な制約によって活躍の機会が失われていることはない。それにも関わらず、何かしらの利益を得ることになる。一方で、身体障害者のような身体的制約がある人は、運動の機会を与えられず、さらに健常者との格差は広がっていく。
この例は平等性にも欠ける上に、公平性にも欠ける。つまり機会が失われている人には何もせず、機会に恵まれている人にだけ利益が与えられている。この時、これらの施策は差別であるとして非難を浴びることになるだろう。

つまり、ここで問題になっているのは、対象者の選択が機会の保障ではなく、差別となる可能性を秘めていることだ。その時、もはや健康施策は公平であるとは言えない。このような施策は、単なる健康を道具にした差別と化すだろう。

健康施策を人事的選別とすることの是非

平等ではない健康施策というと、人事上の選別に健康施策を利用するというニュアンスも感じる。
会社にとっては貴重価値の高い人材と、代替可能性の高い人材がいることは多くの人が目を背けたくなる事実かもしれない。
この時に、先に議論したような属性や医学的背景ではない、人事上の希少価値に基づいて施策を限定することは許容されるだろうか。

例えば人事評価の上位10%のみが医療費自己負担を会社が補填するという制度があったらどうだろうか。
もっと極端な例で、人事評価の下位10%は全ての健康施策の対象外になるという制度があるとどう感じるだろうか。

企業としては希少性の高い人材に対して手厚く保障して、離職予防・生産性向上などを達成してもらいたいということは本音かもしれない。
しかし、多くの人はこの考え方、すなわち人事上の価値によって健康施策を変化させ、人の選別に活用することに不快感を感じるのではないだろうか。

給与に差があることは許容出来ても、健康施策に差があることにはなぜか居心地の悪さを感じてしまう。

第一には、これはまさに公正性に資することのないアプローチだからだろう。
これらのアプローチでは機会損失を埋めるどころではなく、格差を助長している。

第二には、健康を道具化し、「健康」の社会的規範を犯していることを指摘したい。
この背景には、現実はどうであれ、健康はそもそも交換可能なものではなく、公平に享受すべきという、貨幣とは大きく異なる社会的規範で認知されているからではないだろうか。
この社会的規範を乗り越える経営判断は容易ではないし、納得感を形成するのは非常に困難だろう。(そして多くの場合そのコストには見合わないだろう。)
給与という資本主義で広く承認された道具を使う方が、遥かに受け入れられやすいと思われる。

この意味での「不平等な健康経営」に、私は医療者として賛同出来ない。

※但し組織自体の存続に直接的かつ短期的に大きな打撃を与えるようなケースでは現実的に受け入れられていることもあるだろう。役員に対する手厚い人間ドックなどはコンセンサスが得られやすい一例だろう。しかし、これらは組織存続が一義的かつ直接的な目的であり、人材の選別に使用されているわけではないことにも留意したい。

さいごに

健康経営の背後にある倫理的観点に興味をもってきたが、今回のnoteを契機に様々のことを考える機会をもらえた。その機会にまずは感謝申し上げたい。
そして、この問題は唯一絶対の正解があるものではない。コミュニティとして議論を重ね、考え続けることにこそ価値があると信じている。

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